2011年10月6日木曜日

標準語と方言──言葉のアイデンティティ

 「言葉」というものは、ひとつの「文化的グループ」をつくり、それを保つうえに、非常に重要な役割を果たしていることはすでにふれたが、まったく「言葉」というものは、あるグループの同一性(アイデンティティ)──あるグループが、ほかの別のグループと区別され、ほかならぬそのグループであるとされるゆえん──を形成するうえに、ふしぎなほど敏感な働きをするものである。
 今でこそそんな例はすくなくなったが、ついひと昔前は、「方言」がよく笑いの種にされたものである。そして標準語にあわせて、「方言」をなおそうとしても、なかなかアクセントやイントネーションがなおらないことを、今も経験なさっている方も多いだろう。──かくいう私も、生まれは大阪だが、両親が関東であったため、比較的なまりのない標準語はしゃべれるものの、関西の友人としゃべるときは、まったく関西弁であり、それも関西のなかでも「がらが悪い」といわれる神戸、兵庫弁である。奇妙にきこえるかもしれないが、私は純粋の、格式ある「大阪船場言葉」はしゃべれないし──大阪でもしゃべれる人はひじょうにすくなくなっている──京都弁もしゃべれない。比較的なまりなくしゃべれると思っている「標準語」も、「東京弁」の、それも下町のアクセントからみておかしいものがあるらしく、ときおり指摘される。実をいうと、「東京弁」も「標準語」とはちがうところがあって、純粋の「江戸ッ子言葉」は「標準語」に吸収されて消滅しつつあるのである。(本文より)

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